1960年代前半まで日本人デザイナーのキャリア最高地点は"デパート専属デザイナー"だった
1950年代の時点でパリには
シャネル、Diorをはじめとして
多数のオートクチュール系ブランドが存在し、
多数のオートクチュールデザイナーが活躍していた
しかし、日本は大きく遅れをとっていた
コシノヒロコさんの話などによると
1950年代の時点でも服飾学校を出たところで
すぐに自分のブランドを立ち上げる事など基本的に不可能で
"デパートの専属デザイナーになる"
もしくは
"大きな企業の顧問デザイナー"
をやる、という事が服飾学校卒業生たちにとっての
キャリアの最高地点だったという
(それと並ぶ地位が婦人服メーカーのデザイナー)
それを示すようにコシノさん姉妹のうちで
文化服装学院を卒業した
- コシノヒロコ
- コシノジュンコ(2学年下)
は「銀座・小松ストアー」に就職し、専属デザイナーに。
そしてジュンコと同級生(花の8期生)の
- 北原明子(黒田明子)
- 高田賢三
- 松田光弘
は同じく銀座の「三愛」に就職
(賢三は卒業後、秋葉原の既製服メーカーで1年働いたのち転職)
あの賢三でさえ、卒業してすぐ
"ブランド立ち上げ"
とはいかなかったのだ。
なお芦田淳も1960年に高島屋の顧問デザイナーとしてキャリアを開始し、
第1回芦田淳コレクションをようやく発表できたのは1960年代半ばの事
森英恵も1950年代から自身のブランドを
持っていたわけではなく、日本映画の衣装デザイナーだった
(1951年に「ひよしや」を開業したが、それはブランド名ではない)
森英恵もニューヨークでようやく自身のコレクション
を発表するようになったのは1965年の事
賢三はその後1965年にパリに渡り、
修行を経て1970年代に入り、ようやく自身のブランド「KENZO」を設立。
同時期に三宅一生や山本寛斎も自身のブランドを立ち上げ、
創設されたばかりのパリコレの既製服部門に参加し始め、
それ以降、彼らに習い日本人デザイナーにも
「自身のブランドをもって国内外で活躍する」
という夢をもてるようになったが、
1960年代前半まで、そんな事、ほぼ無理な話だった事はあまり知られていない
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