パリで1968年に起こった五月革命は、遠い日本の服飾史に大きな影響を与えた

 
 
出来事の呼称だけは日本でもよく知られた「五月革命」。
 
これは、1968年5月にフランスのパリで発生した、
当時の若い学生を中心とした反体制運動(政治に対して)の事を指す。
 
この「五月革命」とは、実は日本の服飾史に大きな影響を与えたという話。
 
 
 


 
 
三宅一生(1938年生まれ)
高田賢三(1939年生まれ)
 
 
同年代のデザイナーの卵・2人は、
大阪より西のエリアで生まれ育ったのち上京し、
東京で服作り・アートを学んだ。
 
そして、同じく1960年代半ばにフランスのパリに渡り、
現地での修行を開始した。
 
修行開始から数年が経過した1968年の春、
ベトナムの事を想う学生と政府との衝突が現地で発生。
さらに学生ではない若者なども運動に加わっていき、
現地では大きな政治危機/情勢不安が起きた。
 
この一件も大きなきっかけとなり、
パリモード界ではそれまで栄華を極めてきた富裕層向けの
「オートクチュール(高級仕立服)」のビジネスが下火となり、
若者を含めた一般所得層まで幅広い人々を対象とする
「プレタポルテ(既製服)」ビジネスで成功しやすい状況が訪れた
 
そんな追い風が吹く中、1970年代に入ると
文化服装学院で既製服作りの勉強をしてきた高田賢三は
既製服専門ブランドの「KENZO」を立ち上げ、独自のショーを開催し始める。
 
その後、同士達とプレタポルテ系の合同ショーを開催し、
これがきっかけとしてパリコレクションに
オートクチュール部門だけでなくプレタポルテ部門が新設される事になる。
 
そして、1973年からパリコレクションのプレタポルテ部門で中心的デザイナーの1人として活躍しはじめた。
 


 
一方、三宅一生は1960年代半ばからジバンシイやギラロッシュで
経験を積む中で1968年5月に「五月革命」に遭遇した中、
限られた一部の人に向けた服だけでなく多くの人を対象とした服作りをする事を決意。
 
そしてオートクチュール文化の根づくパりを離れてNYに渡り、
既製服文化が盛んなニューヨークで更なる修行を積んだ。
 
そして、1970年代に入って既製服専門ブランドの
「イッセイミヤケ」を立ち上げ、高田賢三同様に
1973年にパリコレデビューを果たすと、そこから30年近くトップデザイナーとして活躍した。
 
 


 

  • 高田賢三
  • 三宅一生

 
この2人は大きな開拓者となって若い日本人デザイナーが
パリで活躍しやすい環境を作り上げ、
そのあとに川久保玲・山本耀司なども後に続いて世界的な存在に。
 
いつしかパリコレクションのプレタポルテ部門とは、
日本人デザイナーズブランドがら全体の2割から3割を占めるまでになった。
 
 
 
 


 
 
もし、1968年5月にパリで「五月革命」という、
若者主体の社会運動が発生していなければ、
オートクチュールの時代がまだしばらく続き
日本人デザイナーがパリで活躍しだすのは1980年代以降になっていたほか、
1970年代前半の時点でパリコレにプレタポルテ部門がなかったら
高田賢三や三宅一生は日本で活動するしかなかったかもしれないほか、
オイルショックによる不景気の中で資金難で廃業し、
別の道に進んでいたような可能性もあるかもしれない。
 
 
 


 
 
もし「五月革命」がなかったら

  • 高田賢三や三宅一生といったパイオニアは、日本の服飾史にまったく登場しない無名の存在として終わっていた可能性もある(特に、経営が下手な事で有名な賢三)
  • パリで最初に成功した日本人デザイナーは賢三・一生・山本寛斎など1970年代前半からパリで活動し出したプレタポルテ系デザイナーでなく、1970年代後半にオートクチュールデザイナーとしてパリに挑んだ森英恵、という風に歴史が書き換えられていたと思われる
  • 既製服の日本人デザイナーがパリで活躍できる時代が到来するのはかなり後の時代にずれ込んでいた可能性がある

 
という意味で、「五月革命」は間違いなく日本の服飾史に大きな影響を与えたといえるだろう。
 
 
 
 
 
 

 

 
メニュー1 TOPページはこちら
(インパクト強い情報ばかり)
 

 
 
メニュー2
(トリビアとしては、ややインパクト薄めの情報)

 
商品名の由来/語源系

 
 
 
インパクトが大きい情報を集めた
「メニュー1」は
トリビア情報TOP
にあります。