山本耀司からの光栄なコラボ話を断ったNIKE(それによりライバルのadidasが勝ち組に)

 
 
21世紀に入ってパリやミラノの高級ブランドと
世界的スポーツブランドのコラボは積極的に行われるようになったが、
2000年前後の時期において両者は相いれない敵対的な存在であり、
パリコレブランドとスポーツブランドがコラボするような事は皆無のような状態であった。
 
そんな2000年前後の時期に、
世界的な日本人パリコレデザイナーの山本耀司は
自身のブランドの愛用者の世代が高齢化していて
若者の愛用者が少なくなっている事に危機を感じていた。
 
 
そんな中、山本氏は若者の履物の代名詞といえる
「スニーカー(スポーツシューズ)」を作る事を思い付き、まずNIKEに電話をかけた。
(インタビューでの山本氏本人の発言)
 
 
しかし前述通り当時は高級ブランドとスポーツブランドは
無関係の存在でコラボなどありえないというムードがあった中、
NIKE社は当たり前のように、この世界的デザイナーからのスニーカー協業のオファーをあっさり断ってしまったという。
 
続いて山本氏はNIKEの永遠のライバルであるadidasに連絡を取ると
「おもしろい!」と先方も快諾してトントン拍子でコラボ話が進む
 
そして2001年に「adidas for Yohji Yamamoto」がデビュー。
両者の関係は発展して「Y-3」という大型コラボブランドが誕生。
('Yは山本氏のイニシャルで、3はadidadの伝統的な3本線を表す)
 
モードとスポーツが融合した世界初のブランドと言える「Y-3」は
アメリカで開催されるNYコレクションに参加したり
adidas社が巨大な資本力を活かして積極的ビジネスを展開する中で、
瞬く間に世界的なブランドへと成長した。
 
 
それをきっかけに高級ブランドとスポーツブランドのコラボは
当たり前のようになり、今日に至るが、それに悔しい想いをしていると思われるのがNIKE。
 


 
山本氏との協業によりadidas社の大幅なイメージアップ、
ノウハウの蓄積、ファン層拡大に成功したのに対し、
山本氏からのオファーを断ってしまったNIKEは
adidasと比べると世界的デザイナーとのコラボがうまくいっておらず、
若者向けのスポーツブランドというイメージから脱却できない状態が続いている。
(山本氏の影響により、世界的デザイナーにとってadidasとコラボする事は大きなステータスとなっていった)
 
 
ちなみに、もしNIKEが山本氏からのオファーを受け入れて
両社のコラボブランドが誕生していたら
ブランド名やブランドロゴは一体どんなものになっていたのか興味深いところだ。
 
 
 
 
 

 

 
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