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森英恵は何故「蝶」を長年描き続けてきたのか?

 
 
国際的日本人デザイナーの先駆けである森英恵は、
デザイナー人生を通じて、トレードマークのように
「蝶(蝶々/Buterfly)」を描き続けてきた。
それはなぜか?
 
 
 


 
 
森英恵氏は学生時代から長く住み続けてきた大都会・東京とは対照的な
島根県南西部の端に位置する吉賀町(旧六日市町)という地域の出身。
この地域では森英恵氏が幼少期を過ごした時期には
冬場は寒くて厳しい環境である一方、
春になると気温が上がって過ごしやすくなり、蝶々がのんびりと舞う
その姿はまさに「希望の星」といった存在だった。
 
結婚したのち専業主婦をやめて自分でビジネスをするようになってからは
1950年代に日本映画界で衣装制作者として活躍。
 
休業を経て1961年初頭にパリ旅行をして大きな刺激を受け、
その年の夏にはパリに続いてアメリカのNYを旅行したが、そこで大きな出来事が起こる。
 
現地で上演されていた「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」というオペラにて、
日本人女性がみじめに描かれていた事や
素晴らしい日本文化が誤って認識されている事などに激怒。
 
その一件を受け、英恵氏はNYでデザイナーとして成功して
日本文化を認めさせてやろうという意気込みのもと、
映画衣装制作から発展してファッションデザイナーとして
本格的に活動しはじめてから、
"日本の女性には、蝶々のように世界にはばたいてほしい"
といった思いも込め、デザイナー生活を通じてモチーフとして蝶を描き続けてきた。
 
そしていつしか、世界中のメディアからは「マダム・バタフライ」と呼ばれるほどになる。
 
 
なお、本格的に海外で活動する事を決意させた
「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」というオペラに関しては、
1985年に浅利慶太氏がイタリア・ミラノのスカラ座で
「マダム・バタフライ」を上演する際に衣装をてがけ、
浅利氏の素晴らしい演出により、最高の作品がイタリアの人に広まった事で、長年、NYでの一軒に関する悔しさを感じ続けてきたものの、
自分の中で一つの決着がついた事をよくメディアで語っている。
 
 
 
 


 
[情報ソース]
森英恵氏がメディアで繰り返し話してきた情報&
東京コレクション内のインタビュー記事
https://rakutenfashionweektokyo.com/jp/topics/interview/hanae-mori/
 
 
 
 
 

 

 

 
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