コシノ3姉妹の中で最も早く海外進出したのは誰?

 
NHK朝の連続テレビ小説「カーネーション」
のモデルとなった小篠綾子さんの娘として、
1930年代から1940年代に生まれた3姉妹、通称「コシノ3姉妹」。
 
 

  • 長女:コシノヒロコ(小篠弘子/1937年生まれ)
  • 次女:コシノジュンコ(小篠順子/1939年生まれ)
  • 3女:コシノミチコ(1943年生まれ)

 
 
そのうち、長女と次女は東京の名門服飾学校の文化服装学院の出身。
卒業してからは、そのままアパレル業界で働いてきた、という歴史をもつ。
 
 
 
 
[1960年代から1970年代半ば]
1960年代から上の2人はアパレル分野で活躍し、
特に次女のジュンコは、1960年代からグループサウンズの人達の衣装制作で活躍するなど、国内のトップデザイナーとして活躍していた。
一方、長女のヒロコは離婚問題など30代までパッとせず、低空飛行が続く。
 
末っ子のミチコは上の2人とはまったく違うキャリアを歩んできた。
能力の高い姉2人と常に比べられて育ってきたミチコは、
学生時代からスポーツ(テニス)に打ち込み、
大学時代には軟式テニス(現在のソフトテニス)分野で日本一になったほどのアスリート。
日本一になったのを機にアスリートを引退したが、
その後も姉2人と比較される事に苦しみ、1973年に渡英し、
日本ではなくロンドンにてようやくデザイナーとして本格的に始動した。
 
 
 
[1970年代後半(ジュンコがパリコレデビュー)]
1965年に渡仏した高田賢三(ジュンコの文化服装学院同級生)は、
1970年代に入ってからパリコレデビューして世界的デザイナーとして活躍し出した。
そんな高田賢三のライバルであったジュンコは彼の活躍に刺激を受け、
1970年代半ばまで国内にて地道に足をつけてキャリアを歩んできた。
そして、賢三の国際デビューから遅れる事5年、
1978年にようやくパリコレデビューを果たす
 
 
 
[1980年代]
ヒロコは1978年にローマ・オートクチュールに参加するなど
40代に入ってキャリアが上向いてきたが、まだその時点では本格的に国際的活動をスタートさせたわけではなかった。
1982年に大手メーカー・イトキンとの契約を結んで
同社の強力なバックアップ体制を手に入れ、
ジュンコから遅れる事4年、1982年にパリコレデビュー
 
3女のミチコは1980年代半ばあたりから
ロンドンにてトップデザイナーとして活躍するようになる。
 
 
[1990年代]
ジュンコとミチコはパリやロンドンなどで活躍し続けた。
 
一方、ヒロコは円高問題により1992年を最後にパリコレ撤退を余儀なくされ、
1993年以降は東京を拠点とした活動をするようになる。
 
 
[2000年代]
1999年に高田賢三がパリコレから引退したのに続き、
次女・ジュンコも2000年にパリコレから引退。
 
一方、長女・ヒロコは2000年代後半に入り、
15年以上の撤退期間を経て、パリコレに復帰。
そこから数シーズンに渡ってパリコレで活躍。
 
 
 

3姉妹の間で最も世界的な知名度が高いのは?

 
長女・ヒロコのパリコレ参加期間はそんなに長くないのに対し、
次女ジュンコは1978年から2000年まで22年間に渡って
パリコレで活躍してきたという歴史があり、
さらに世界中で大規模なショーを開催してきたという実績もあり、
3姉妹の中では次女・ジュンコの知名度が1番と言われる。
(末っ子のミチコはパリコレ参加歴なし)
 
 
 
<関連商品リンク>

綾子とあかい糸 コシノ三姉妹の母の生涯 / さとうひさえ 〔HMV&amp;BOOKS online Yahoo!店〕

 
 
 
 
 
 

 

 
 
 [サイト全体のメニュー]

 
 

 


 
[データ系]

 


 
[データ系(学校/ブランドOB・OG]
(人気コンテンツ)

 
 


 
[コラム系]

 
 
[話題の人物・渋沢栄一関連]

 
 
[1分で学べる人物伝]
意外と知られていない偉人の生涯を
手短に内容濃く、トリビア入りでご紹介