山本未来さんの"未来"という名前はパリコレと深い関係がある

 
 
トップ女優・山本未来(正確な漢字は未來/2000年に改名)さんは、
世界的なファッションデザイナーで
1990年代後半からは日本のテレビ番組でも度々姿を見かけるようになった
山本寛斎氏の娘として知られる。
 
彼女は子供の頃から"(有名な)山本寛斎の娘"という目で自分を見られ、
何かで自分が高く評価されたとしても自分の実力で評価されたのか
わからずに悩み続けてきたと言われる。
 
そんな中、10代の頃に自分の本当の実力を試すべく、
親の名前を完全に隠してある映画のオーディションに臨んだところ、
自力で役を掴み、その後、父の力を一切借りずにトップ女優へと成長していった。
 
 


 
 
2020年に亡くなった山本寛斎氏と大きなイベントなどで同席する事はなく、
父が生きている間、ひたすら自力で自分の未来を切り開いてきた彼女。
 
女優として活躍するごとに"山本寛斎の娘"というイメージは
どんどん薄れていったが、実はファーストネームだけは父の仕事と切り離せない関係にある。
 
 
 


 
 
 
スタイリストの高橋靖子氏とタッグを組んで
1971年に英国・ロンドンでのショーを大成功させた寛斎氏。
 
それを機にデヴィッド・ボウイやエルトン・ジョンなどからも
一目置かれる存在となり、大忙しの状態となる。
 
 
仕事がひたすら順調に行っていた中、
世界最大のファッションショーイベントである
パリコレクション(パリコレ)に自信満々で挑戦し、
本人は称賛される事を確信していた。
 
 


 
 
しかし、ロンドンで通用した寛斎氏の感性・作風は
フランス・パリではまったく認められる事なく大失敗。
日本での会社経営も行き詰まり、命を絶つ事まで考えたほど
落ち込む辛い毎日をすごしていたと言われる。
 
 
そんな中、山本夫婦に1974年11月、かわいい次女が誕生。
 
新しい命を授かった寛斎氏はそれを機に一念発起し、
パリコレへの再挑戦を考え始め、
「神様、どうか私に未來をください」
といったように神頼みのような事を考えていた中で、娘に"未来"という名前を付ける事を決める。
 
 
そして、次女の誕生をモチベーションとして
パリで受け入れてもらうための戦略を練りに練り、
パリコレクションに再挑戦したところ、
今度は一転して現地で高い評価を受けるようになり、
高田賢三・三宅一生と共に1970年代後半から
世界最高ランクの日本人デザイナーの1人として大活躍するようになった。
 
 
一方、私生活ではどんなに忙しくても定時で会社を離れ、
派手な生活をするデザイナーのようにディスコ/飲み屋通いする事なく、
自宅に帰ってからは子供たちをかわいがり、
人生の節目には手書きのメッセージカードをおくるなど、子煩悩の良いパパであった事も有名。
 
 
 


 
 
もし1974年に未來さんが誕生して一念発起することがなければ、
山本寛斎氏が一度パリコレに失敗してからの人生は
一体どうなっていたかわからず、次女の誕生は結果的に
彼の人生にとってのターニングポイントとなった。
 
 
なお名前の由来については
娘の未来さんも父から聞かされている事が判明しているが、
死後のインタビューでは、
"娘の未来"ではなく"自分(寛斎)の未来"に良い事があるようにと、
娘に未來という名前をつけた、なんとも自分勝手な由来を、
破天荒な父らしいエピソードとして面白おかしく語っている。
 
 
 
 
 
 

 

 

 
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