日本のブランドで働いていた時期がある海外デザイナー情報

 
 
日本の国際的デザイナーの中には、
国内外の服飾系専門学校を卒業したのち、
自身のブランドを立ち上げる前に海外の世界的デザイナーのもとで修業を積んでいた経歴をもつ人が多数存在。
 
一方、1970年代からパリコレに参加する日本ブランドがどんどん増え、
パリコレ全体の中でも日本ブランドが確固たる地位を占めるようになってから
服飾学校を出て、憧れの日本のブランドに就職した歴史を持つうような海外デザイナーも存在。
 
その中の主な例をご紹介。
 
 
 


 
 

クリスチャン・ラクロワ

一時期パリコレに参加していた時期もある芦田淳の世界的ブランド「JUN ASHIDA」にて若い頃に働いていた。芦田氏の娘である芦田多恵はその頃からの知り合いで、のちに多恵氏がラクロワ氏のもとで研修をしていた時期もあり

エン二ョ・カパサ

パリコレやミラコレに参加してきた1986年設立の世界的ブランド「コスチューム・ナショナル」の創業デザイナー。ブランド立ち上げ前の1980年代前半にヨウジヤマモトのスタッフ(アシスタントデザイナー)として働いていた。そんな日本と深いゆかりがあるエン二ョ氏は2017年にブランドを離脱するにあたり、有働幸司(メンズ)・江角泰俊(レディース)という2人の日本人デザイナーを後任に指名した。

アレキサンダー・マックイーン

1990年代から2000年代にかけて活躍した世界的デザイナー。立野浩二によるパリコレブランド「KOJI TATSUNO」で働いていた時期がある事で有名

ジャック・ムス

もともとコムデギャルソンや川久保玲に関して、特に強い思い入れがなかったと語っているものの、2010年頃に若干19歳で「JACQUEMUS」を立ち上げたのち、2011年頃からしばらくの間、コムデギャルソンの店でショップスタッフをしていた時期がある事が判明している。その頃に、この若手デザイナーはこのブランド勤務を経て様々な事を学んだ

△ジャンポール・ゴルチエ

オンワード樫山にキャリアの危機を救われた世界的デザイナー。デビュー後に資金が底をついた中、オンワード経営のBUS STOPというパリの店が新人デザイナーを募集していた。そんな中、そり募集に応募して店のためにデザイナーとして働いていた時期があり(その報酬によりゴルチエブランドを継続させる事に成功)

 
 
海外の有望な若手が日本の文化服装学院など世界的な服飾学校に留学する例はあまりないため、日本の学校を出てから日本のブランドで働いた例はなかなか見当たりません。
 
 
その他、世界的デザイナーのオリヴィエ・ティスケンスは、完全な新人というわけではなく既にある程度成功をしていた人物ながら、2000年代後半にファーストリテイリング傘下のTheoryでクリエイティブ・ディレクターとして働き、NYコレクションに参加していた時期があり。
 
また、イザベル・マランは若い頃にヨウジヤマモトの仕事に
関わっていたというような情報があるものの、
内部スタッフとしてなのか?外部スタッフとしてなのか?その辺りの詳細が今のところわからず。
 
 
 
 
 

 

 
 
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