松本弘子(モデル)をピエール・カルダンに紹介したのは森英恵

 
 
2020年に公開された
ピエール・カルダンの生涯を描いた映画
「ライフ・イズ・カラフル」
において明かされたエピソード。
 
 


 
クリスチャン・ディオール氏の片腕として活躍したのち、
1953年に自身のブランドを立ち上げ、
オートクチュール協会のメンバーでありながら
1959年には世界で初めて本格的なプレタポルテコレクションを発表し、
プレタポルテの普及に大きく貢献したピエール・カルダン氏は、
1960年前後から現地の白人モデル中心のパリのモデル業界の中で
アジア人モデルや黒人モデルも積極的に起用し、
世界中のモデル達に道に切り開いた人物としても知られる。
 
 
その中でパリモード界において
東洋人として初めて本格的に活躍したのが、
当時のピエール・カルダン専属モデルである松本弘子であるが、
彼女がカルダン氏に発掘されたのは日本での事。
 
1950年代半ば、日本へ立体裁断技術を伝達すべく、
来日して文化服装学院などで仕事をしていた時期、
日本人モデルを探していた。
 
そんな中、当時、日本のトップ衣装デザイナーとして国内の
映画業界で活躍していた森英恵(松本弘子の友人)から
松本弘子という当時の日本のトップモデルを紹介され、
来日ショーのモデルとして松本弘子を起用する。
 
 


 
 
カルダン氏は天女のように歩く松本弘子を強く気に入り、
「パリに来てほしい」
と再三に渡ってラブコールを送り続けた。
 
しばらくは断り続けていた松本弘子であったが
意を決して1960年に渡仏し、カルダンの専属モデルとなると
1960年代前半から半ばにかけてパリオートクチュール界を代表するモデルの1人として、白人中心だった業界の中で活躍。
 
東洋人モデルとして初めて大成功したパリコレモデルとなった。
 
 
もし森英恵氏が彼女をカルダン氏に紹介していなかったら
彼女の人生、そして日本人モデルの国際化の歴史は
大きく変わっていた可能性があり、
森英恵氏の推薦は日本のモデル業界にとって大きな転換点となった。
 
 
 
松本弘子をカルダンに紹介した事を森英恵が語る公式予告映像

 

 

 

 
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